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昭和27年に初めて開かれた神戸菊花展が、平成13年秋の開催をもって50周年を迎えました。戦後の荒廃した時代の中にあって当時の原口忠次郎神戸市長の提唱によって始まったこの行事は、長年にわたって多くの市民に勇気を与え、潤いをもたらし、今日に至っています。
もともと菊の栽培は、神戸でも、一部の上流階級の人々の趣味として明治時代から行われていました。広い屋敷の庭園で、優雅に楽しまれてきたものですが、愛好家は食糧難時代の戦時下も、品種保存のため親株を作りつづけていました。戦後の混乱もひと段落ついた昭和27年、「殺風景になってしまった神戸の街でこそ菊花展をやってはどうか」との原口市長の言葉が菊花展を生むこととなりました。善は急げと、当時の白崎農政局長以下、井沢殖産課長の陣頭指揮のもと、局をあげて取り組み、市長の一言から3ヵ月後には第1回の神戸菊花展が開催される運びに。初めての開催とあって、とにかく人の集まるところに菊を持っていこうと、会場は王子動物園に決まりました。
手本も前例もないなか、穴掘りから花壇づくりまで、何もかもが一からのスタート。一足先に発足していた神戸菊花協会の会員はもちろんのこと、大正10年に創立された菊水会の幹事・故駒井元哉や明石佳友会など、多くの関係者の奔走によって、昭和27年11月1日、初めての菊花展が実現しました。手さぐりでの開催ではありましたが、美しいものから遠ざかっていた当時の神戸市民の目を大いに楽しませ、喜ばせました。 |
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好評だった菊花展、翌年、翌々年も引き続き開催され、神戸の秋を彩る恒例行事として定着していきました。第2回、第3回までは、懸崖花壇と大菊切花が中心でしたが、昭和30年の第4回からは大菊花壇や生花用切花展もあわせて行われるようになり、華やかさを増しました。当時の入園者数は、1ヶ月の期間中に約3万人。菊花展を毎年心待ちにする人も着実に増やしていました。
昭和30年代から50年代は、菊の栽培がもっとも盛んになった時期です。また、菊の鑑賞を楽しむことも一種の流行になっていました。昭和38年には、神戸菊花展の入園者数も10万人を超え、連日押すな押すなの大盛況に。人工的に花を咲かせるシェード栽培の効果もあって、開催期間も長期にわたりました。
市民にも菊花展の存在がよく知られるようになり、神戸の秋の風物詩として定着。菊花協会の会員数も着実に伸びていきました。
昭和30年頃には、当時の原口市長が実現に向け力を入れていた明石海峡大橋を菊盆景でつくり展示するなど、常に時代の背景を取り入れた展示が鑑賞する人の共感を呼びました。名古屋城菊花展への意匠花壇の出展やマルセイユなど海外での菊花展に花を送ることもありました。外国との交流にも菊は大きな役割を果たしました。
また、当時は花のプリンセスの発表会も菊花展の会場で行われており、神戸でもっとも華やかな場所でした。
昭和40年代に入ると、海外からの見学者も大幅に増加。菊花展期間中、神戸港に大型客船が着くと、そこから降りてきた外国人らはそのまま相楽園に。相楽園の庭園としての美しさと、出品された菊の花の見事さに日本の文化の奥深さを堪能して帰国する外国人の姿が多数見受けられました。
昭和46年の第20回を機に、大変な労力がかかることからシェード栽培は終了。21回目以降は、菊花展の時期を毎年10月20日から11月23日に定めています。 |
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昭和50年代に入ると、日本人の生活全体が安定、趣味の一環として菊を作ってみようという人が大幅に増えました。そのため、各市町村が競うかのように菊花展を開催。菊の栽培があらゆる地域に広がっていきました。そのなかでも、歴史と伝統のある神戸の菊花展は特別な存在で、ここで賞をもらうことが栽培家たちの大きなステータスとなりました。
会場が、相楽園であったことも魅力でした。手入れの行き届いた日本庭園での展示が菊の美しさをより際立たせたからです。作品を飾る屋形の柱なども長らく磨き丸太を使って作りあげた本格派で、懸崖花壇の間口も四間。他の菊花展では三間間口が一般的であったことから、見応えも抜群でした。現在でも四間間口は他の菊花展ではあまりありません。
また、常に協会のために尽力し、会の運営と組織の発展に奔走してきた故竹中石之助理事、故岩井武治理事というリーダーの存在も菊花展の歴史を語る上では欠かせません。「菊作りに大切なのは人づくりである」と、事あるごとに繰り返してきた彼らの活躍が菊花協会、そして菊花展を支え、大きく発展させていきました。
昭和52年には、神戸菊花協会の事務局がそれまでの神戸市農政局から神戸市土木局に移りました。菊栽培場も、諏訪山公園から須磨離宮公園植物園計画地内に移転しました。また、この年、兵庫県菊花連合会が発足、兵庫県菊花展が県立フラワーセンターで開催されるようになりました。
昭和57年には、神戸菊花協会の事務局を神戸市土木局から神戸市公園緑化協会諏訪山公園緑の相談所に移しました。 |
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昭和60年に、グリーンスタジアムを会場に開催された「コウベグリーンエキスポ’85」では、菊花協会として菊花展を実施。シェード栽培で咲かせた菊を10月10日から11月4日まで展示し、入園者数の大幅増加に貢献しました。通常の菊花展と時期が重なり関係者は大変苦労もしましたが、来場者には非常に好評でした。
昭和60年代に入ると、菊の出品数が徐々に減少、一時のブームも次第に落ち着いてきました。昭和63年には、鉢植風致盆景種目を新設、出品数の増加につなげました。平成3年には神戸菊花展の40回を祝う記念祝賀会を開催しました。翌4年には、盆栽菊の基本樹形を毎年一形態を決めての競技を初めて導入しました。平成5年にはさらに 全国的にも例を見ない衝立風致盆景を新設。大菊の育成課程をおさめた写真展をスタートさせたほか、休憩用のベンチを設けるなど、これまで以上に充実した内容でゆっくりと鑑賞してもらえる工夫も取り入れました。
平成6年には他の菊花展にはない、草物盆栽、小品盆栽、樹添え作りの3種目を新設。あわせて、特別に優れた作品を表彰する神戸大賞も新たに設けました。翌7年1月17日、阪神・淡路大震災が突発。周知の通り神戸市は壊滅的な被害を受けました。相楽園では、正門両横と南側全部の塀が倒壊し、塀の横にあった屋形の資材置き場も被害を受けました。市民の心情に配慮し、この年の菊花展は特別に無審査で開催。多くの市民から、菊を見て心が和んだとの声が寄せられました。同年、菊の栽培場をそれまでの須磨離宮公園から鈴蘭公園緑の相談所に移転。菊作りにより適した場所での栽培が始まりました。平成8年の第45回菊花展は、相楽園の塀も完成した上で例年通り開催しました。
市街地での菊作りは、日照時間や大気汚染、土地事情などのほか、園芸ブームの多様化などで、総合花壇のような大掛かりな種目や高度な技術を必要とする菊盆栽花壇などの出品が減少する傾向にあります。しかし一方、出品はともかく高齢化に伴い菊花協会へ入会される方はあり、わずかではありますが会員数は増加傾向にあります。 |
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| ちょうど50回目の開催となった平成13年9月9日の重陽の節句の日に、神戸菊花展50周年行事を21世紀復興記念事業の一環として開催。相楽園ハッサム邸前広場で「重陽の宴」を実施しました。「和・洋の衣食住と菊の文化」をテーマにしたこの催しでは、五感を使って菊の文化を知ってもらおうと、菊の鑑賞はもちろん、菊にゆかりのある曲の演奏や、菊の着せ綿、菊酒のふるまい、菊料理、菊の育て方教室などの催しを多彩に繰り広げ、好評のうちに終了しました。 |
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